“精神科では、死んでしまいたいというという気持ち、自殺への欲求を「希死念慮」と言う。例えば、うつ病の患者さんを診察している時、希死念慮があるかないか、あれば、それが強いかをどうか評価する。強ければ、薬物療法を始める前に入院してもらった方がいい。自殺防止のためである。 当初、私は元「被虐待児」の「消えたい」という訴えを聞いた時に、うつ病と同じように「希死念慮あり」とカルテに記載していた。つまり、抑うつ感の中で「自殺したい」と思っていると解釈していたのだ。 しかし、その後、「死にたい」と「消えたい」とは、その前提がまったく異なってるのが分かってきた。 「死にたい」は、生きている、を前提としている。 「消えたい」は、生きたい、生きている、と一度も思ったことのない人が使う。 「死にたい」と思うには、その前提に、本当はこう生きたいという希望や理想がある。あるいは、人生のある時期、楽しく生きてきたという経験がある。でも、何かの事情で、自分が望んできた人生が実現できないと分かり、その時に人は死にたいと思う。例えば、人の役に立ちたい、家族と一緒に楽しく生きたい。でも、こんな自分になってしまったら、そんな人生は不可能だ。だから、死にたい。生きる希望や目的、理想、楽しく過ごした体験あっての「死にたい」なのだ。 一方、被虐待者がもたらす「消えたい」には、前提となる「生きたい、生きてみたい、生きてきた」がない。生きる目的とか。意味とかを持ったことがなく、楽しみとか、幸せを一度も味わったことのない人から発せられる言葉だ。今までただ生きてきたけど、何もいいことがなかった、何の意味もなかった。そうして生きていることに疲れた。だから「消えたい」。 「死にたい」の中には、自分の望む人生を実現できなかった無念さや、力不足の自分への怒り、それを許してくれなかった他人への恨みがある。一方、「消えたい」の中には怒りはないか、あっても微かだ。そして、淡い悲しみだけが広がってる。”
— 「消えたい ─虐待された人の生き方から知る心の幸せ 」 高橋和巳 筑摩書房 p23~24 (via boooook)
